色彩豊かな作品を生み出す日系ブラジル人作家 ユーゴ・間部(Yugo Mabe)が、2008年6月18日に日本移民100周年を迎えるブラジルについて語る。
1955年ブラジル・サンパウロ生まれ
ブラジルの風土から生まれた強い原色で描かれる作品は、豊かな街の風景や大地に育つ花や草木などをモチーフにし、非常に繊細な抽象世界を創り出す。
ブラジルの国民的画家「マナブ・マベ」を父に持つ。
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移民100周年ブラジレーロになった日本人「画家」
日系社会が輩出した最も著名な芸術家といえば”ブラジルのピカソ”、画家のマナブ・マベであろう。そのマベの作品数百点を収蔵するマナブ・マベ日伯近代美術館が移民百周年記念事業に合わせ6月、東洋人街、リベルダージにプレオープンする。「ブラジル企業も出身の熊本県も資金的な支援をしてくれている」と三男の画家、ユーゴ(52)。
半田知雄ら著名な日系人画家も展示されるが、健在の画家の中で今、最も人気のあるトミエ・オオタケ(94)の絵も含まれる。高齢をものともせず描きまくっているオオタケは「ロベルト・オキナカなど若い画家も活躍しており、日系人芸術家の将来は楽しみだわ」と語る。
移民80周年では、絵ではなく、サンパウロ市内に巨大な波の彫刻を作ったが、百周年の今年は、移民船が到着したサントス港に、高さ15メートル、幅2メートル、奥行き20メートルの真っ赤なオブジェ制作した。移民百年祭に合わせ6月にはお披露目の予定だ。アトリエで見せてもらった模型は海のようでもあり、移民を出迎えて打ち振られるハンカチのようにも見える。
オオタケがサントス港に着いたのは、1936年、22歳の時だった。港は夏の黄金色の日差しに包まれていたという。「京都の材木商の家に生まれたのです。兄の益太郎が渡伯、輸出商を営んでいました。下の兄、貞之助が仕事の打ち合わせでブラジルへ行くというので、好きな絵が思う存分描けると私も便乗することにしたんです。それがね」と、オオタケはまゆをひそめた。「間もなく日中戦争がぼっ発、帰国できなくなってしまったのよ」
製薬商に転じた益太郎の仕事を手伝っていた夫と結婚するが、新たな悩みが生まれた。絵を描き続けるか、あるいは、家庭に専念するか。オオタケは仕事より家庭をとった。51年、一時帰国。待っていたかのように母が心臓発作で亡くなった。悲しかったが、異国の地で暮らすうえで、気持ちの負担感が消えた。
そんな時、サンパウロ近代美術館(MASP)で展覧会を開くためパリからやってきたある日本人画家が「オオタケさん、絵が好きならどんどん描きなさいよ。子どもは放っておいても育つものだから」。この言葉に励まされ再び筆をとり、抽象画に挑戦した。既に39歳、二人の息子、ルイは13歳、リカルドは7歳になっていた。
「十枚ほど描くと、周囲が個展を開けとせっつく。MASPで個展を開くと評判をとった。あちこちの公募展に出品、いくつも賞をもらいましたよ」
絵が売れだした。ちょうどサンパウロ大学を出て建築家として売り出したルイのデビューと重なった。「母と兄が有名人のなってしまったので、僕は支え役に徹してますよ」とグラフィックデザイナーになったリカルドはおどけてみせた。「食堂で描いていた母の姿を覚えているが、すごい成長ぶり。年はとっても、今も進化し続けている。食べ物だけは相変わらず納豆にひじき、こんにゃくが好物で代わり映えがしないけど」=敬称略
(編集委員 原田勝広)
2008年5月23日 日本経済新聞より
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