Sandra Ramos

このたび プロモ・アルテではリニューアルオープン記念:第4回企画展としまして、キューバの新進作家サンドラ・ラモス展を開催いたします。
サンドラ・ラモスは現在世界的に活躍する若手キューバ作家の中で最も注目されている一人です。
日本では1997年に最初の個展が開催され、プロモ・アルテにおきましてもたびたび紹介してまいりました。

今回は2001年に制作された作品が中心で、人間の根元に関わる大きなテーマを洗練された手法により表現し、きっと皆様を魅了するものと思います。
どうぞご高覧くださいますようご案内申し上げます。
>>>サンドラ・ラモス/プロフィールの詳細はこちら
>>>EspejismosフライヤーPDFダウンロード

pic pic
pic pic

■オリジナルサイズをご覧になる場合は作品をクリックしてください。
■ギャラリーでは11点展示しています。
La Maldita circunstancia
del Agua por todas partes
La Mano de Dios Triste Tristeza
El llanto del Mar El Pez de Gaston Ser Tierra

サンドラ・ラモスからのメッセージ

これらの作品は、人間は一体宇宙の中でどの場所に存在するのだろう、という人類共通の問いかけに対する私の個人的な、そして内面的なアプローチを表現したものです。
私たちは常に私たちについてまわり、またそれを想うと眠れなくなる未知なる世界について、芸術、宗教、哲学、そして科学を通し何とか答えを見つけようとしてきました。
自然界における人類の詩的な存在の証、宇宙の中での輪廻転生、目には見えないけれども人間とそのコンテクストとの関係、己の小ささに対する認知と、普遍的な存在そのものがつかさどる無限の可能性…

私たちは生まれる前に何者だったのか?今は何者なのか?そして私たちは死後、どこへ向かうのか?

そのような想い・問いかけが私にこれらの作品の制作へと導いてくれたきっかけです。

あるフォト版画の印刷を機に私は自分の作品にいつも自分の肖像を使うようになり、前述の問いかけに対する答えを表現してきました。作品を通して私個人と自然界 〜私たちが生まれ、還ってゆく世界〜 との絆を表しているつもりです。そこには常に変わり行くもっともらしい説と、限りないマチエールの可能性が述べられています。
いくつかの作品にはギリシャの哲学者によるミレトス話()へと私たちを導いてくれる移り気な流れの川があり、また、精神の雄大な旅を改めて見つめようと言うきっかけとなる私たち自身の反映・映し、自分も知らない自身の内面へと、導いてくれる橋が潜んでいるのです。そうかと思えば他の作品で私たちは土に、雲に、空気に変わり、また鳥となって高く舞い上がり、または小さな魚となって穴を掘り、永遠の海の子宮に深く潜ってゆくのです。

技法を少々お話しすれば、これらの作品はミクストメディア、とりわけ自然の有機的な物質の残留物が再生されて使われています。鳥の羽根、イノシシの針のような毛、植物、枯葉、魚の骨、貝殻などを紙、鏡といった、人間の手によってつくられた材料と組み合わせています。それぞれの要素が使われているのは決して偶然でも、なんとなくでもありません。ひとつひとつのモノはそれぞれの作品の中で象徴的な意味とコンセプチュアルな意味を表すため、密に結びついているのです。
鏡はその「映し出す」役割を持つものとして、水の象徴として、また生と死の間を渡すものとして… 鏡は未知への扉であり、その扉は私たちを存在の神秘へと導いてくれます。
鳥の羽根は私たちを飛翔へ、自由な空へと羽ばたかせてくれます。砂は現世へ、この世の有限性を象徴しているのです。

※ミレトス話−紀元前2世紀のギリシア人Aristides Miletusが書いた恋愛・冒険小話集


まなざしの行方:正木 基 (美術評論家・casa de cuba主宰)
サンドラ・ラモスは、1990年代初頭、社会主義圏崩壊の影響を受けるただ中のキューバにデビューした。ラモスにとっての制作の最初の指針は、非社会主義圏世界(とりわけ米国)との関係を断ち切られて成り立っていた、社会主義がいつかはユートピアに至るという価値概念の消滅の渦中に、キューバ人としてキューバの中で、何が見定められるのか、何を見定めるべきという問いであったろう。

彼女の代表作で、1990年代キューバ美術の代表作でもある『あらゆるところの水は悪い環境』(1993年)で、キューバ島の形となって横たわる裸体のラモスは、海流に身を委ねているかのようだ。が、いうまでもなく、パラダイスを思わせるラモス島(キューバ)は、周囲の海によって、米国をはじめとする外界世界と隔絶されてもいた。さらに、その後の作品で、ラモスは、キューバ島を赤ん坊にして周辺の海を羊水のイメージに重ねて見せた。そこで、キューバ島にとって、本来海洋的交通の要であるはずの海が、外界世界からの過保護、言わば隔絶であること、従って、交通と隔絶という海洋の二面性が問題提起として視覚化されている。そこから、海、その水で生きる者たちがキューバ人、というラモスの認識が生まれたならば、貝殻にしても、魚にしても、そこに生きとし生けるものに対する彼女のアイデンティティーが認められて不思議はない。海に囲まれ、海の中で、どのように生きるかが、そこでの問いなのだ。

そうした自然環境的関係と同様にラモスの作品は、キューバ人の生活に見られるさまざまな事象や夢想や象徴を作品の中に取り込み、日常環境との関係をも、作品に取り込み、視覚化して見せる。例えば、先のラモス島(=キューバ島)のパロマの樹(帝王椰子)や、左腕のモロ要塞(これは外敵に犯され続けたキューバ史のシンボルでもある)のように。それはキューバの自画像をイメージする作業だ。そしてキューバを見る作業が、キューバ人である自身を鏡で見定めるような自己参照的な作業であることは言うまでもない。そこで一貫しているのは、常に、キューバ人女性として、キューバから、いかにして世界とのコミュニケートを通じ、自身が、強いてはキューバ(人)が世界のどこに位置し、どう見られているかを計測することから、キューバ(人)のアイデンティティーとは何かを見定めようということなのだ。それは、キューバだけでなく、世界中いたる所で、起きている価値概念や生活基盤の転倒、言い換えるならば世界史レベルの変転を、いかに個人の生活史レベルで受け止めるかを、ラモスが、キューバという事例を引いて、世界に提示しているということでもあるのではないか。それらの作業を、ラモスは、版画に始まり、ボックス・アート、油彩、ビデオ・インスタレーション、鏡やキューバの生活を象徴する事物のコラージュなどさまざまな表現手段を横断して行ってきている。今回は、版画、ボックス・アート、油彩に引き続いて、コラージュ作品が、初めて紹介される。