■「精神身体主義」 美術評論家
エリコ・マルミロリ
第3回目となる日本での個展において、作家のジェームス・クドーはここ2年間の思い出を絵画作品と写真作品で表現する。
私たちは人生の上で過去を振り返り、これから何が起こるのかを観察するが、ジェームス・クドーはここに感覚のすべてを集結させ、自分をとりまく物質的・精神的な空間に、視覚と嗅覚上の経験を浸透させている。するとそれはクリエイティブなプロセスを経て、彼の想像の個人的な表明に変る。
過去の記録を振りかえった、さまよう線やしるし、そして走り書きめいた引っかき傷は、それらのアイディアを具体化しているかのようだ。それはコロンビアの作家、ガブリエル・ガルシア・マルケスが自伝に書き表した、「人生はいかに生きたかではなく、いかに記憶しているか、そしてそれをどのように伝えていくことを記憶しているかである」という言葉を再確認するものに見える。
ジェームス・クドーはしばしば友人たちから物語を借り、過去の出来事の時間や空間を自分の手法で創り変えて適所に置いてみる。
抽象主義の基づいているものの、彼の完成作品をみると、作品制作の課程で何かにさえぎられたかのような示唆を感じるヒントや影響を内包していることが分かる。
現代タームにおいて、凝視とはいまだに第一順位にあり、観察者によって統制されている。観察者は美的で個人的な知覚をベースに、侵略的な解釈を通して位置づけを完成したり、限定したりする。
とすると、作品は“反応を誘発する行為”、ということになるだろう。訪問者にとって、つまり彼、あるいは彼女が数々の個人的な出来事の瞬間を急いで思い返し、記憶を残す(あるいは残せないかもしれないが)ことは、やはり避けられないことである。
作家は多様な原点を持つ要素、たとえばドイツで拾い集めた石などをのびのびと使った作品をつくっており、それらは今回の日本で初公開となる白黒写真の焦点となっている。
また、彼の描く自然の線は、未完のドローイング作品に似ており、画面の再構成を促すかのようでもある。
こうしてジェームス・クドーは、最初に(具象)絵画作品を制作するかのように様々な要素をアレンジし、それから写真のプロセスを経て、自分の使用する材料で見る者を当惑させるのだ。
このこころみの中では、過去・現在・未来の事実は時空を越えて構成されている。ジェームス・クドーは自分で集めた遠く離れた場所からの物体を再配置し、彼のアトリエでそれらを創作し、時間に影響されない彼ならではの芸術的な創造の要素を加え、異なる場所で発表する。
領域の制限を受けない、芸術的な瞑想への探求はジェームス・クドーにとって何ら新しいものではない。過去に彼は、ドイツの作家・ステファニ・ピーターから送られたイメージをもとに制作をしたことがあり、彼とは代わる代わる決められたサイズの5点の写真作品による共通のシリーズを発表している。そのシリーズ作品は“半球の間”という展覧会となって2002年にドイツ、そして今年はカナダで開催されている。作家はシンプルで連想的なしるしを用いて、見る者をそれぞれの近い過去や遠い昔に誘い、それが不本意であろうが、審美的な協力の精神であろうが、視覚的な物語とともに凝視することを促すのである。
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