|
日本とボテロ 酒井哲朗
フェルナンド・ボテロの展覧会が、日本ではじめて開かれたのは1981年である。
「ボテロ展-陽性のファンタジー」と名付けられ、6月から8月にかけて西武美術館で開催されたこの展覧会は、1960年から1980年までに制作された油彩画、素描など57点、彫刻8点によって構成された、それほど大規模ではなかったが、ボテロ芸術の概要をうかがおうとする企画だった。
だが、それに先立ち、1972年10月発行の『みずえ』812号に、「フェルナンド・ボテロ-楽園願望への志向」と題し、作品写真14枚を付した日向あき子の作家論が掲載されている。1972年といえば、ボテロの大規模な展覧会が、ドイツの主要都市を巡回して成功を納め、ボテロはニューヨーク5番街のほかパリにスタジオを構え、ボゴタ郊外のカヒカに別送を購入し、ニューヨークのマルボロー画廊で、彼の第一回個展が開かれた年である。
当時日本は、コンセプチュアル・アートとハイパー・リアリズムの最盛期だった。『みずえ』812号のボテロ特集は、1970年の台5回ヴェネチア・ビエンナーレ展に出品してイタリアに滞在し、2年ぶりに帰国した新進気鋭の関根伸夫(30歳)と美術評論家針生一郎の対談と同時に掲載されている。「オブセッシヴ・イメージ」という連載企画の8回目であるが。ボテロはまだ日本では知られていなかった。ちなみにこの10回続きの連載には、ボテロのほかに、アンソニー・グリーン、エドワード・キーンホルツ、エスコバル・マリソール、ニキ・ド・ファンファールらが紹介された。
日向は、次のようにいう。「異様に充満したフォルムの人物や生物が描かれたボテロの絵画の世界には、ポップアートもシュールレアリズムも、アンリ・ルッソーもルネ・マグリットも、スペイン風肖像画やエル・
グレコ、ルーベンスもフランドル派もある。しかし、何よりも支配的なのは南米的な田舎っぽい空気である。そこにはプレ・コロンビア、スパニッシュ・コロニアルの風土にルーツをもつボテロの楽園願望の志向が見られ、官能性とユーモア、諷刺に満ちた彼の絵画は、荒漠とした現代の機械文明の世界に対して鋭い諷刺となっている」
日本ではじめてボテロの本格的な展覧会が開かれた1981年には、ボテロはアメリカでも成功していた。1979年にワシントン市のハーシュホーン美術館・彫刻庭園でボテロの大規模な回顧展が開かれ、好評だった。日本展のカタログには、ハーシュホーンのボテロ展を担当したシンシア・ジャフィ・マッケイヴのボテロに関する詳しい評伝が転載されている。1979年のボテロ展は、ベルギー、ノルウェー、スウェーデン、アメリカを巡回した。アメリカで認められることは、ボテロにとって格別の意味をもった。
ボテロの芸術は、ラテン・アメリカの民族性を根拠とするが、それが鍛えられたのはアメリカにおいてである。ボテロは早熟だった。自宅のマリア像と教会の絵ぐらいしか見たことがなかったという環境の中で、16歳の頃には、地元の有力紙「エル・コロンビアーノ」の日曜版の挿絵を描き、ピカソやダリを論じ、リベラ、オロスコ、シケイロスらメキシコの壁画家の影響を受けた。ペルーの『人間の歌』の詩人セザール・ヴァリエホと「アンデスの憂鬱」といわれるメランコリックな感情を共有し、17歳の時には<泣く女>という油彩画を制作している。ボテロは、1952年20歳の時に、前年に描いた<海の前で>という作品がコロンビア・サロンで2等賞に入賞し、その賞金とその年開いた個展の収益をもとにヨーロッパに留学した。
ボテロの芸術形成において、ヨーロッパの個展絵画は重要な意味をもっている。はじめスペインで、サン・フェルナンド美術学校に通い、プラド美術館でベラスケスやゴヤを模写した。1953年10月から1955年3月まで、フィレンツェに住み、サン・マルコ美術学校でフレスコ画を学び、フィレンツェ大学美術学校でロベルト・ロンギの美術史の講議を聞き、ジョットやウッチェロ、マサッチョ、ピエロ・デラ・フランチェスからルネッサンス古典絵画を求めて、イタリア各地を訪ねた。
バーナード・ベレンソンの名著『ルネッサンスのイタリア画家』(1930)は、ボテロに啓示を与えた。ベレンソンは、ウフィッツィ美術館にあるチマブエとジョットの<荘厳の聖母>を比較して、「触覚値」について説明している。「ジョットは、顔も姿も単純で、骨太で、量塊的な類型、すなわち、現代社会において触覚的想像を強く刺激するような類型をめざしている」という、この「触覚値」の概念は、ボテロの芸術観の根幹にかかわる問題だった。
かつて、「エル・コロンビアーノ」紙に書いたピカソに関する論説で、ボテロはピカソの芸術に官能性と記念碑的性格を指摘した。ボテロがメキシコの画家たちに魅せられたのは、彼らの劇的なモニュメンタリティである。ボテロは、スペインでもパリでも、近現代の絵画には目もくれず、もっぱら古典絵画を研究した。そして、ジョットやピエロ・デラ・フランチェスらの触覚的想像力を刺激する彫塑的絵画を通じて、彼自身の芸術制作の根拠と確信を見いだしたのだった。
だが、ボテロの制作活動の舞台は、ヨーロッパではなく、アメリカだった。1955年にヨーロッパから帰国したボテロは、1950年代後半にはコロンビアを代表する前衛画家だった。1959年の第11回コロンビア・サロンに出品した<カメラ・デリ・スポージ(マンテーニャヘの賛歌?)>は、審査委員会で拒否されたが、評論家の抗議により、一転して1等賞を獲得した。ボテロは、翌年の第5回サンパウロ・ビエンナーレ展にはコロンビア代表として、<12歳のモナリザ>などを出品している。ポップ・アートの先駆といわれる、コロンビアの人気競輪選手を描いた<ラモン・ホヨス?>を制作したのも、この年である。1958年から1960年まで、すなわち26歳の時、ボテロはボゴタ国立美術学校の絵画教授になっている。
ボテロがはじめてアメリカを訪れたのは、1957年ワシントン市のパン・アメリカン・ユニオンで開かれた個展のためである。この時、ニューヨークで抽象表現主義の作品を知った。ボテロは、翌年ワシントン市のグレス・ギャラリーで個展を開き、「グッゲンハイム美術館国際賞 1958」コロンビア部門に入選している。1960年に、グレス・ギャラリーで2度目の個展、「グッゲンハイム美術館国際賞1960」で入選しており、この年からニューヨークに住んだ。翌1961年に<12歳のモナリザ>がニューヨーク近代美術館に購入された。
ボテロは、27歳から41歳までの13年間をニューヨークで過ごした。彼は、その理由を「僕はマゾヒストだから」といっている。ヒスパニック系に対する人種差別や抽象表現主義でなければ芸術ではないというニューヨーク・スクールの排他的な風潮は、ボテロにとって決して居心地のいいものではなかったようだ。しかし、彼がニューヨークにとどまったのは、そこには「現実」があり、芸術の最前線であったからである。ニューヨークは彼にとって戦場だった。
ボテロは、ニューヨークでデ・クーニングやフランツ・クライン、マーク・ロスコに会い、リキテンシュタインらアメリカのポップ・アーティストたちを知った。<12歳のモナリザ>や<パレカスの少年>などの筆触や色彩表現には、抽象表現主義の影響が認められる。しかし、ボテロは西洋の古典を範型に、それらを独自に変容して、ヨーロッパともアメリカとも異なる自らのアイデンティティを追究した。
ボテロは、1962年にギャラリー・コンテンポラリーズでニューヨークではじめての個展を開いたが、結果は散々だった。この時期は、<ピンソン一家>(1965)のような、緻密な筆触による充満したフォルムで構成するボテロ様式が完成するまでの過渡期だった。さまざまなヴァリエーションによってボテロ独特の絵画世界が展開されるのは、1960年代後半からである。
1966年、ボテロはドイツのバーデン・バーデン州立美術館で最初の個展を開き、この展覧会はミュンヘン、ハノーヴァーを巡回し、好評を博した。アメリカでも、ミルウォーキー・アート・センターで近作展を開き、タイム誌で賞賛された。こうしてボテロは、ヨーロッパ、アメリカの両大陸で重要な作家とみなされるようになった。1970年には、再びバーデン・バーデン、ベルリン、デュッセルドルフなどドイツの主要都市で油彩画80点による大規模な展覧会が開催された。『みずえ』812号に紹介されたのは、この時期のボテロである。
ボテロは、1973年からパリに移った。この頃から彫刻をつくりはじめた。1975年から1977年までの二年間は、絵を止めて彫刻に専念した。この間、大きなトルソから、猫、蛇、巨大なコーヒーポットなど、ボテロ固有のさまざまな主題の彫刻25点を制作し、翌年パリのクロード・ベルナール画廊が、パリの美術見本市でボテロの彫刻展を開いた、そして、1979年にワシントン市のハーシュホーン美術館・彫刻庭園でボテロの回顧展が開かれた。1981年に日本で開かれたボテロ展は、このように国際的に著明なボテロの絵画、彫刻を紹介する展覧会であり、アジアでははじめての展覧会だった。
1986年に、渋谷東急百貨点、北海道立近代美術館、梅田大丸ミュージアム、新潟市美術館で、ボテロ展が開かれた。油彩画48点。素描30点、彫刻12点による展覧会である。油彩画は1960年から1986年にかけての作品で、1980年代の近作に重点を置いて、ボテロの絵画表現の展開を跡づけている。彫刻は<アダム><イヴ>(1981)、<馬上の男><猫>(1984)などの大作が含まれており、前回の展覧会にくらべると、彫刻が質量ともに充実している。それはボテロの制作の進展をそのまま反映するものだった。
1980年代は、日本経済が史上最高の活況に涌き、日本各地に大型の公立美術館が続々と建設され、これらの美術館が美術作品を収集した。また、公共空間に芸術作品を設置するパブリック・アートの全盛期だった。この頃、モダニズムの神話はもはや色あせ、芸術の主流はポスト・モダンであった。このような動向の中で、ボテロの彫刻は、宮城、埼玉、山梨、新潟、広島、徳島、高知など多くの県立、私立の美術館のコレクションとして収蔵され、それらの多くは建物内外のパブリック・スペースに設置された。県や市などの公共機関が作品を収集する場合、作品の芸術性だけでなく、公衆の美意識や市民感情も考慮されるが、その点でボテロの作品がもつ現代性と大衆性、そして批評性は得難いものであり、ボテロは人気作家となった。
1987年、1991年に東京のマルボロー画廊で個展が開かれた後、1995年に美術館連絡協議会が組織して、日本の美術館で巡回展が開かれた。高松美術館、茨城県つくば美術館、新潟県立近代美術館、新宿・三越美術館、いわき市立美術館などであるが、ここでは欧米だけでなく、すでに日本でも有名な芸術家として紹介され、近作中心に絵画、素描、彫刻100点で構成された。ボテロの作品は、日本の公共空間で多くの人々に親しまれており、1992年のパリのシャンゼリゼ通りの大型彫刻31点による野外展、続いて1993年ニューヨークのパーク・アベニュー、その後のシカゴ、ブエノスアイリス、マドリッドの野外展など、その反響は日本の美術界にも伝わっていた。ボテロの展覧会が日本で開かれる度、その存在は大きくなっている。そして今回、注目の大型彫刻による野外展が、東京の恵比寿ガーデンプレイスで開かれることになったのである。
ボテロは、はじめは彫刻家ではなかった。ベレンソンに示唆された触覚値に基づく、絵画における空間ヴォリュームの追求は、「充溢した形態」を生み、ボテロのいう官能性と記念碑的性格をもった豊饒な絵画世界が誕生した。ボテロは、絵画という限定された二次元の平面空間に三次元的フォルムを極度に強調して、独特のイメージの世界を創造した。しかし、塊量的、触覚的、あるいは記念碑的というのは本来彫刻芸術の特性であり、ボテロは、彼の絵画的イメージを、ついに彫刻という物体として現実化した。
ボテロの彫刻は、はじめ小さかったが、やがて絵画的イメージに匹敵するように大きくなった。その彫刻は高く評価され、彫刻家としての存在が大きくなり、いいまでは現代を代表する重要な彫刻家のひとりといえるだろう。大局的にいえば、ボテロは、ロダン以後、ブルデル、マイヨールを経て、一方にジャコメッティ、他方にマリーニ、マンズー、グレコ、ファッツィーニ、クロチェッチィら多様に展開した具象彫刻の系譜に連なる。具象彫刻といっても、シーガルやサンファール、マリソールなと異なり、ボテロは、主題や素材の点からいえば、正統的かつ古典的である。だが、抽象表現主義やポップ・アートを経由したその形態はきわめて独自である。
ボテロの彫刻の素材は大理石やブロンズであり、大作はすべてブロンズである。ブロンズの彫刻には鋳造という共同作業が伴い、大きさも物理的限界がある。色彩彫刻を別にして、石やブロンズなどのいわゆる一般的な彫刻が絵画と異なる点は、色彩という感覚的な饒舌を禁じられる点である。ボテロはブロンズという素材のストイックな均質性を効果的に活かしている。滑らかに仕上げられ、光を反射して微妙に変化するブロンズの表面は、単調で寡黙であるが故に、物体の充溢感と存在感を強烈に表現している。
今回の野外展には、馬、猫、母性、横たわる女、鏡を持つ女、果物を持つ女、馬上の女、アダムとイヴ、エウロペの誘拐、レダと白鳥、スフィンクスなど680キロから1,500キロに及ぶ重量の巨大彫刻20点が出品されている。主題に関する限り、まさしく伝統的、古典的であるが、それらの形象は奇想天外である。ボテロは、1995年の日本店のカタログに、「芸術はその時代のみでなく、あらゆる時代の様式上の慣用的な表現に同調しないとことから生まれます」「それだからこそ芸術は、革命の永続的状況に位置することが出来るのです」というメッセージを寄せている。
馬も猫も人間もすべてまるまると肥大して、塊量そのものである。目、鼻、口、耳、指先、乳頭、性器などの人体の局部、女性のもつ鏡や果物などの付属物、すなわち細部が小さく表現されているため。そのコントラストによってヴォリュームがさらに強調される。つまり、彼の彫刻は、絵画と同じように、古典的規範や現実の比例関係とはまったく異なる、ボテロ独自の規範によって調和している。だが、彫刻は素材のもつ性質に規定され、絵画よりもラテン・アメリカ的な風土性は抑制されている。
アダムとイヴは、ボテロの解釈による、普遍的な現代の人間像なのである。レダやエウロペは堂々として、白鳥や牡牛に化身したゼウスの超越的な力と拮抗している。「芸術は変型だ」と言明するボテロのデフォルメは、ギリシャ神話の世界をボテロ固有の神話的世界に変容する。ボテロは、古典の引用によって現代性をきわだたせるというポスト・モダンの逆説的な戦略を効果的に利用している。古典を主題とすることによって、ボテロは、彼の彫刻が内包する原始的な生の高揚を、西欧文明の到達点である現代に向かって、人類普遍のものとして主張する。
彫刻が額縁で区切られた絵画と異なるもうひとつの特性は、それが置かれた現実空間と密接に関わる点である。彫刻は一種の環境芸術であり。まして大型彫刻のインスタレーションとなると、環境芸術の極地である。ユーモラスで官能的なボテロの大型彫刻群は、日常的空間を豊饒な神話的空間に変え、見慣れた現実的世界を非日常的なシンボリックな生命的世界に改変する。パリやニューヨークなど多くの都市で、人々はそれを体験し、われわれの前に出現している。
■BOTERO年譜 |